澪標 ―みおつくし―

「響き合うこと」の真価を問う

栄 セツコ
桃山学院大学教授
2017年12月8日

 今年も、残すところ、あと1カ月を切りました。新年のあいさつで始まった私のコラムも、これが最後の稿となります。寄稿を通じて、私は「響き合うこと」の大切さと難しさをお伝えしてきました。そのことを体感したのは、心病む人々とのかかわりからであり、その人々が語る物語との出会いからです。

 お一人お一人の人生の物語は、一つとして同じものがない貴重な物語です。しかし、心病む人々が語る物語には、思いも寄らなかった病を患い、自分でもその症状を説明できず、それを語るすべが見つからない状況のなかで孤立し、孤独感が募っていく過程が共通してみられました。

 また、病そのものの苦悩のほかに、「自分の声に誰も関心を示さない体験」「自分の声よりも家族の声が優先される体験」「病のことは人に言ってはならないと言われた体験」が重層化され、自らの病の語りを心の奥底に抑圧する苦悩があることも共通していました。そのため、心の病をもちながら、自分らしく生きるためには、改めて、病の経験に意味づけを行い、自らの物語を取り戻す体験が必要になってきます。

 その際、私は援助専門職として、同様の状況から生きる方途を見いだした人々の語りを聞く場を提供してきました。その人々の語りを聞くことで「つらい体験は私だけではなかったのだ」と孤独感が和らぎ、「今度は自分が他者に病の経験を生かそう」と悔やむだけの人生と決別する姿を多く見てきたからです。

 病の物語が安心して語り合える安全な場所を当事者の方々は「居場所」と名づけていました。「私の語り」が「私たちの語り」として響き合う居場所があればあるほど、その人のセーフティーネットが密なることも体感的に学んできました。

 しかし、新たな人生を再構築するはずの語りが、自らの存在を脅かす怖さがあることもみてきました。病の経験を自分の生活用語で紡いだ語りは唯一無二な語りであるにもかかわらず、「つながり」が目的化されると、語りに同調志向が働き、定型化された語りに終始したり、聞き手に迎合するような語りに書き換えられたり、同調できない語りを排除してしまう危険性をもたらすことがあります。

 それは、ありのままの語りが受容されない体験であり、語りを行った人にとって新たな抑圧となり、孤独感を抱くことにもなるのです。そのような負のつながりは、閉塞(へいそく)的で、誰のための何のためのつながりなのかが見えにくくなり、それを語る人の存在すら脅かすことになってしまうのです。

 私が出会ってきた心病む人々の多くは、そのような負のつながりにセンサーが働く人々でした。「病」という形をもって、閉塞的で同質性の高い社会が排除の論理を生むと警告してくれているように思えました。自分のなかにある多様な声に耳を傾け、それと対話する必要性を教えてくれているように思うのです。

 改めて、皆さまの人生の物語のなかで、今年はどのような章が紡がれましたか? その章をあなたと響き合いながら著述した人はどのような人ですか? その問いをもって、私の稿を終えたいと思います。長い間、おつきあいいただきありがとうございました。

 (さかえ・せつこ、大阪市阿倍野区)