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広岡 浅子
 
なにわ人物伝 −光彩を放つ−


広岡 浅子

日本女子大設立に尽力  
2006/01/07

三善 貞司

 慶応三(一八六七)年、大坂の豪商加島屋の一族広岡信五郎に嫁いだ京の豪商三井高保の娘浅子は、まだ十七歳の少女だったが、幕府の崩壊によるパニックをもろに受けなければならなかった。九百万両という巨額の大名貸しが返済されず、証文は紙きれ同然になったからだ。天王寺屋、平野屋、茨木屋、和泉屋などの大坂の両替商は、軒並みに倒産する。

 夫の信五郎は優しいが坊ちゃん育ちのお殿さまで、観世流の謡に凝って番頭たちの訴えにフムフムとうなずくばかり。やむなく浅子が戦場に出た。貸金のある大坂の諸藩の蔵屋敷に出向き、逃げ回る家老や会計方重役の首根っこを押さえ、少しでも返済をと迫る。若い女だとたかをくくっていると、物事の理非から武士道までを論理的に説いて、恥を知りなさいと責め立てる。

 明治維新を辛うじて加島屋が乗り切れたのは、この彼女の働きと実家の三井家の援助が大きい。父高保は江戸の金本位制と上方の銀本位制が中央集権化で一本化する、蔵屋敷は失われ物資の集積地は大阪から東京に移ると先を読み、東京に本店を移して新政府御用の金融業者となり、両替商に代わって国立銀行の設立に尽力しはじめた。

 「事業を整理しなはれ」と高保から忠告された信五郎は、銀行と紡績にしぼる。加島銀行を設立、大阪株式取引所の理事、尼崎紡績初代社長と信五郎は働くが、実質的に運営したのは浅子である。女では看板にならぬ社会通念のため、夫の名を借りただけだ。

 加島屋関係の鉱山の再建を夫から頼まれたときは、さすがの浅子もたじろいでいる。なにしろ気性の荒い鉱夫たちに交じって、指揮をとらねばならない。それでも浅子は護身用のピストル二丁を身につけ、男たちと起臥(きが)を共にし、ときにはポタポタ水のしたたるまっ暗な坑道に入った。若い女だと好奇の目で眺めていた鉱夫たちから、やがてすごい女だと嘆声が出始めると、彼女はいきなり労働条件や待遇の改善に大金を投入する。その胆力と行動力には乱暴者まで服従し、姐御(あねご)姐御と立てられる。

 銀行経営にも敏腕を振るっている。とにかく数字に強い。迅速に正確な資料を作り、常に先を読む。決して勘や慣習に頼った経営はやらぬ。科学的な合理性で因習を打破して成功するから、信五郎も妻の才能にかぶとを脱いだ。とにかくこの時代の浅子は女神のようなカリスマ性に彩られた伝承が多い。大柄で丸顔、でっぷり太った色白の浅子は、西洋の貴婦人のように洋装がよく似合い、気品にあふれていた。

 こう述べてくると夫の信五郎は凡愚のように見えようがそうではない。彼は温厚な人格者で、包容力がある。存分に妻に活躍させたばかりか琴瑟相和(きんしつあいわ=夫婦仲の非常に良いこと)した。まさに夫版の内助の功である。

 明治三十五(一九〇二)年信五郎は死亡、浅子は一人娘かめ子に養子一柳恵三を迎え、銀行をはじめ事業を彼に譲る。恵三は東京帝大法科の出身で、経営の才能もあった。

 実業から離れた浅子は、少女時代の夢を実現させようと、成瀬仁蔵らと女子大学の創設に奔走する。両親の無理解で学校教育を受けられなかったからだ。仁蔵は明治十一(一八七八)年大阪に梅花女学校を創立、大阪では最初の女子教育に着手した女子教育のパイオニアで、同二十七年アメリカの教育事情を視察して帰国してからは、自分の理想実現のための女子大学の設立をめざし、協力者を求めていた。浅子は彼の主張に共鳴し資金援助を含めて、八つ年下の仁蔵を全面的に支える。

 同三十七(一九〇四)年、東京の文京区目白台に「日本女子大学校」が誕生。「自発創造」「信念徹底」「共同奉仕」を綱領に女子高等教育の先駆けとなり、多くの優秀な女性を育てるが、浅子の働きは学長を務めた仁蔵に優るとも劣るまい。

 明治四十四(一九一一)年、仁蔵の影響で受洗し、日本キリスト教中央委員になり宗教活動に入る。社会事業、奉仕活動に専念するが、とりわけ遊郭で苦しむ女性たちの救出に人一倍取り組んだ。「体を売る女をなぜ責めるのか。彼女たちはほかに手段がないからだ。ではなぜないのか。それは男たちが女子教育の機会を奪ったからだ」−これが彼女の生涯の信念であった。

 大正八(一九一九)年一月、「私は遺言なんかしませんよ」と言いながら死亡する。享年七十歳。「婦女新聞」に、「(浅子は)尼将軍北条政子に近い方でしょう。まれに見る女丈夫でした」との人物評が出ている。




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