日曜インタビュー

29年の生涯どう生きる?

映画「聖の青春」
監督 森 義隆
2016年11月20日

背負ったもの多面的に

「美しい映画になると思った」と話す森義隆監督=大阪市内のホテル
松山ケンイチ=(C)2016「聖の青春」製作委員会

 大阪を根城に東京の羽生善治に挑んだ天才棋士・村山聖(さとし)を描いた「聖の青春」(KADOKAWA配給)が大阪ステーションシティシネマほかで上映中だ。29歳という短い時間を疾走した主人公の生涯を「どう一緒に生きられるか。背負ったものを多面的に描いた」という森義隆監督に話を聞いた。

■29歳で考える

 −なぜ村山聖の映画を作ったのか。

 僕の劇場映画デビュー作は29歳のときに撮った「ひゃくはち」という野球青春映画。それを見てくれたプロデューサーが「将棋世界」という雑誌の編集長だった大崎善生さんが書いた「聖の青春」を映画化しないかと声をかけてくれた。大崎さんは37歳でそれを書いたが、主人公と同じ年齢の僕が撮ったらどうなるかと興味を持った。

 −それから映画化まで8年かかっている。

 僕が一番興味があったのは聖が29歳で亡くなったこと。その無念さを映画で探求してみたかった。その意味で最期の4年に絞って描くことに決めるまで時間がかかった。脚本は世代が近く僕より2歳上の向井康介さんにお願いした。途中、東宝から声がかかり「宇宙兄弟」というメジャー映画を撮っており、今作は8年ぶりに実現した。

 −松山ケンイチは撮影時30歳だった。

 松山さんはすでに原作を読んでいて、映画の企画があるといううわさを聞きつけて、自分からやりたいと申し出てくれた。彼はこちらから要請する前に役作りをしていて、村山聖になりきるためと体重を20キロくらい増やして、「レイジング・ブル」のロバート・デ・ニーロのような過酷な準備をしてくれた。僕は「美しい映画になる」と思った。

■宿敵・羽生善治

 −「美しい」とは?

 「美しい生きもの」といった方がいいかもしれない。それは人間としてという意味と、将棋の勝負の美しさということと重なる。将棋の駒にそれを託し、無駄なものをそぎ落として、勝負する男を描こうと思った。5歳のときから難病のネフローゼを患い、29歳でがんで亡くなるまで病魔と闘った。そして小学校で覚えた将棋で、宿敵・羽生善治という相手を見つけてそれに挑んでいく。

 −羽生は聖よりも1歳若い同世代。

 聖は羽生に魅入られたというか特別な思いを持つ。もちろん将棋が強いということもあるが、そのライバル心と同時に、何か憧れ的な感情があるような気がする。「羽生さんの生の輝き」というものが聖には見えたのかもしれない。あるいは自分の中にあった「死に神」がそれによって照射されたのかもしれない。「負けたくない」というのは一緒で、2人の対局はほとんど五分で、ラストの闘いは、ほとんど聖が勝っていたのだが、彼の悪い一手で羽生に大逆転される。

■「死神」の正体

 −2人が対戦するとき、お互いにぼそぼそと話をする。

 2人が本当はどんな話をしていたのか分からないが、羽生が聖に負けた後で「負けるのは死ぬほど悔しい」と天井を見上げてつぶやく。それは聖が彼に負けたときと同じで、そのとき2人の身体に流れる「生気」も同じものであることが分かる。それを多面的に描くのが僕の狙いで、聖の松山さんに、冷静に命を燃やし、涙を流すシーンのように、102%+2%の完璧さがあったからできた。

 −羽生の東出昌大も役に入っている。

 東出さんも羽生役を志願してきた。もともと将棋が好きで羽生ファンだったそうで、僕と2人で羽生さんに会いに行って話をしていろんなことを学んでいた。数日後、羽生さんから自前のメガネが送られてきて、彼はそのメガネをかけて演技をしているので、羽生さんが乗り移っているような気がする。将棋への純粋な気持ちがそこに生まれている。

 −羽生が太陽なら、聖は月か。

 羽生さんは太陽だが、鬼でもあり、聖も同じかもしれない。それは先にも言った「負けるのは死ぬほど悔しい」という2人の言葉につながっている。特に聖の場合、「死に神」が付いている。29歳のときに背負った「死に神」とはどういうものだったのか。その正体は何だったのか。聖が最期の羽生戦を闘って、あんなに優勢だったのになぜ負けたのか。その答えはそれぞれ考えるしかない。

 もり・よしたか 1979年生まれ。埼玉県出身。早稲田大時代、演劇部で俳優を目指したが諦めて演出に転向。テレビマンユニオン入社。2008年に野球青春映画「ひゃくはち」で監督デビュー。「宇宙兄弟」(12年、東宝)でメジャーに進出し外国映画祭で高い評価を。今作は8年がかりの入魂作。テレビ、映画、舞台と幅広く活躍。