亀井澄夫の妖怪不思議千一夜

藤井寺市岡・北岡

2017年3月25日

貂の夫婦、恨むことなく守り神となる

「悲しや悲し、これも定めか」イラスト(C)合間太郎

 司馬遼太郎の短編に「貂(てん)の皮」というのがある。今回は、その内容と史実と伝説を織り交ぜて書いてみる。

 室町時代の初め、丹波の赤鬼と恐れられた悪右衛門赤井直正(なおまさ)(景忠(かげただ)とも言われる)がある日、大江山で狩りをしていると、黄金に輝く毛なみの2匹の貂が現れた。さっそく弓を放つと1匹に命中。しかし、もう1匹は逃げることなく打たれた貂の傷をなめて介抱している。直正はすぐにもう1匹も弓で射殺して持ちかえると「こんなに見事な貂は見たことがない」と家臣たちに称賛され、その夜は祝宴となった。

 深夜、直正が寝ていると、なにやら枕元でささやき声が聞こえる。はっとして跳び起きると、見たこともない夫婦が寄り添っていて、こんなことを言った。

 「私らは、あなた様の手にかかった貂の夫婦です。今さら恨み言を言う気はございませんが、せめて我々の塚を建てて回向をお願いします。また毛皮を使って槍(やり)の鞘(さや)を作り、大事にしていただけましたら、末代までお家を守ってさしあげます」

 これを聞いてもう1匹の貂が逃げなかった理由がわかり、さっそく高僧を招いて供養をし、立派な塚も建てた。その後、貂の皮で作った槍の鞘のおかげで赤井家は繁栄し、数々の戦いで勝利したと言う。

 その後1348(正平3)年、直正の子孫は今の藤井寺市岡・北岡付近で楠木正行(まさつら)と戦い、味方の武将は討ち取られたが、子孫は貂の鞘のおかげで助かったという。しかし、1575(天正3)年(その翌年かも)、織田信長が丹波を攻略した際、赤井家のもとへ降伏するよう告げに来た脇坂安治(やすはる)に鞘を譲ったという話もあり、実際に、たつの市の龍野歴史文化資料館には貂の鞘の実物が保管され『貂の皮由来』にその来歴が記されている。

 とにかく伝説とはあいまいなもので諸説逆説多数あるが、だからこそ興味は尽きないのである。

 (日本妖怪研究所所長)