12日に東京で開かれた「第45回少年の主張全国大会」で米子市立東山中学3年の矢曳未来さん(14)が最優秀賞に当たる内閣総理大臣賞を受賞した。同大会で鳥取県内の中学生が最優秀に選ばれるのは初めて。
大会には秋篠宮家の次女・佳子さまも臨席され、全国38万人を超える応募者から選ばれた12人が発表した。
矢曳さんは小学4年生の時に交通事故に遭い、一時は意識を失うほどの状態を体験。気がついた時には「体に力は入らず、何も考えることもできなかった」といい、治療とリハビリを経て再び普通に学校に通うようになるまでに1年以上もかかった。

作文「私が歩む夢への道」は、中学校に進学し、以前とは違う自分に戸惑いながらも、周囲に支えられたことをきっかけに特別支援学校や特別支援学級の教諭になる夢を抱くまでをつづっている。
記憶力の低下や体の疲れなどの後遺症に直面し、以前とは違う自分に悩んだ時期もあったが、中学生活を通じてその思いは変わった。委員会活動や応援団など周囲の人たちのサポートを受けながら参加することで、徐々に「以前とは違う自分」を受け入れられるようになったという。

自分の体験を作文にしたのもそうした自分自身の変化の表れだ。「思い出すとつらいこともあり、最初はためらったけれども、先生や家族に褒めてもらってアドバイスももらい、大会にも出ることができた」と前向きになれた。言葉や体は今も自分の思ったように操れるわけではないが、家でも学校でも毎日練習を重ね、原稿を見ることなく作文を読み上げられるようになった。

大会前には「賞をもらうことよりも、自分の経験を伝えることで私も頑張らないといけないと思う人が一人でも増えればいいと思う」と語っていた矢曳さん。
表彰式後に行われた講評では審査員長を務めた千葉商科大の宮崎緑教授が「できない自分を受け止める真の勇気が素晴らしく、審査員も涙が止まらなかった」と評価した。
大会では同中学校の望月千恵子教諭のアドバイスもあり、声を張ることを心がけた。受賞については「すごく光栄でうれしい。まさか自分がという気持ちで驚いている。全国にいる自分と同じような立場の人に思いが伝われば」と喜んだ。
作文の終わりには「私は自分の歩幅でゆっくりゆっくり『私の夢』を叶えようと思う」と今後への思いをつづった。今の自分を認め、できることに全力を尽くす。矢曳さんの夢への道はこれからも続く。
矢曳さんの作文「私が歩む夢への道」全文
私は障がいを持っている障がい者だ。生まれつきではなく、6年前に交通事故に遭ったことで後遺症が残ってしまったのだ。事故後のショックで歩けなくなった。記憶力が低下した。集中力が続かなくなり、ささいなことで疲れて怒りっぽくなった。私はその後遺症を負ったことで、できないことが増えた。生活に関する不自由、勉強に関する不自由、その他いろいろなことで前の自分の方が良かったと思う。最近は怒りの気持ちより、悲しみの気持ちが増えたように思う。
私には二つ上の姉がいる。私は今、中学校3年生だから、高校進学を考えたときに真っ先に頭に浮かんだのは姉だった。姉と同じ高校に行きたいと思った。けれど、それはとても難しい選択だと知っていた。私には障がいがあり、姉とは違うからだ。障がいを負ったことで、勉強に集中して取り組むことが難しくなり、できることよりできないことが増えた私に高校進学なんてできるだろうかと考えた。今は自分の体の状態が少しずつ分かってきたからこそ言えることだが、私には普通校進学は難しいのだろうと考えている。けれど、前は変わった自分を受け入れたくなかった。やれば私はできる。元のように戻れると考えていた。そう思って中学校に通ってきたが、今となってはそれも難しいということを知った。大きくなるにつれ、自分の体が分かってきたからだ。自分を知るというのは、つらいことなのかも知れない。私は、そのことを理解した時から、なんだか体の力が抜けて悲しくなった。私はもしかしたら小学校から中学校に上がる時、事故に遭う前の自分に戻りたくて、姉と同じ東山中学校を選んだのかもしれない。
そんな理由で選んだ中学校だけど私は今、その選択をして良かった、幸せだと思う。なぜなら中学校に通っていると、先生たちが私を本当に大切にしてくれているということが分かるからだ。それは、私が今、何よりも欲している気持ちだ。また、中学校に通うことで、同級生と一緒に勉強をすることができた。勉強だけではなく、いろいろなことに挑戦させてもらえた。委員会活動や応援団に参加することができた。そしてこの3年間を通して、私は全てが全て融通が利くわけではないということも知ることができた。
私は大人になったら、支援学校や支援学級の教師になりたい。中学校の先生たちが私を大切にしてくれているように、私も教師になったら、支援学校や支援学級の子どもたちを大切にしたい。生まれつきの障がいがあったり、体が不自由で普通校には通えなかったりする子どもたちに「あなたたちには居場所がある。一人ではない」ということを知ってもらいたい。そのために私は自分を見つめ、自分にできることを探していきたい。だから私は、高校は養護学校に行きたい。養護学校で自分の可能性を見つけ、自分にできること、誰かの役に立てることを探していきたい。
私は最初からこのような考えを持っていたわけではない。最近になってやっと「できない自分」を受け入れられるようになってきたのだ。小さい頃から頑固で、これだと決めれば、周りの人の言うことなんて聞かなかった。だから事故に遭って同年代の人たちより、できないことが増えたということが、ものすごくコンプレックスだった。
けれど、もうそれは過去の話だ。今の私はこうなのだから仕方がない。この考えは、自分ではできないと諦めたのではなく、自分を認めたのだ。私は、私なりの道を歩むことを願う。私は自分の歩幅でゆっくりゆっくり「私の夢」をかなえようと思う。目的地へ時間をかけて進んでゆくカタツムリのように。私の夢はどこまでも続いていく。