【ネットオリジナル】〈デジタルアーカイブ あの日 あの時〉JR倉吉駅開業120周年(2023年) 駅名3度変わる、現駅舎は4代目

JR倉吉駅開業120周年
 (鳥取県倉吉市、2023年12月20日)

 【概要】JR山陰線の倉吉駅が開業120周年を迎えた。開業したのは1903(明治36)年12月20日。同年、境港から現倉吉市の上井(あげい)まで山陰線が開通し、この駅を「倉吉駅」と称した。駅名が3度も変わった珍しい駅で、昭和40~50年代は100人以上が働く大きな駅だった。橋上化された現駅舎は4代目。歴史をひもとくと、倉吉のまちが駅と共に栄えてきたことが分かる。

JR倉吉駅開業120周年を記念したパネル展=2023年12月18日、鳥取県倉吉市

 JR倉吉駅の南北を結ぶ自由通路。駅舎の「エキパル倉吉」を管理するNPO法人ふるさと遊誘駅舎館が、開業120周年を記念したパネル展を開催している。

 「倉吉駅物語」―。駅や列車の懐かしい写真と共に、「全盛期の倉吉駅」の様子を再現している。

 「デゴイチ」の愛称のD51形蒸気機関車、「京都夜行(普通列車「山陰」)、かつてあった倉吉線の「キハ58系」…。倉吉と大阪を結んだ「急行みささ」は乗車率200%だったという。

 この記念パネル展は駅舎館の塚根さとみさんが中心となり、倉吉在住の鉄道研究家、中原研二さんの協力を得て開催した。

 駅構内のデジタルサイネージでは駅舎の変遷を見ることができる。

山陰で初めて鉄道敷設を請願

 120年を迎え、まず「倉吉駅の歩み」を見てみたい。倉吉市教育委員会が2014年に発行した『くらよし風土記~倉吉学入門~』に詳しい。

◇     ◇

1903(明治36)年 倉吉駅(初代)開業
1912(明治45)年 上井駅に改称
           倉吉軽便線(のちの倉吉線)が上井駅から倉吉駅(2代目・のちの打吹駅)まで開業
1922(大正11)年 倉吉軽便線が倉吉線に改称
1972(昭和47年) 上井駅を倉吉駅(3代目)に改称
           倉吉駅(2代目)は打吹駅に改称
1985(昭和60)年 倉吉線廃止
1987(昭和62)年 国鉄分割民営化でJR西日本となる
2011(平成23)年 橋上駅舎供用開始

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昭和40年代の上井駅
1972(昭和47)年、新駅舎が完成
2011(平成23)年に完成した橋上駅舎

 上井にある倉吉駅は、かつて走っていた倉吉線の中心市街地(打吹地区)にあった駅との兼ね合いで、3度駅名が変わったことが分かる。現在の駅舎は4代目だ。

 歴史はどうか―。『くらよし風土記』では「倉吉線の興亡」と題して紹介する。
 明治期、全国に鉄道が敷設される中で、倉吉町は1891(明治24)年、陰陽を結ぶ鉄道敷設を山陰地方で初めて政府(当時の貴族院議長伊藤博文宛)に請願する。

 しかし、倉吉のどこに鉄道を通すかで意見が分かれる。当時は汽車が走ると土地が動いて稲が切れたり割れが起きたり、煙で農作物が不作になるなどの反対があった。

 日下村(のちの上井町)の村長福井善十郎は村に鉄道を通すことが利益と考え、すでに開通していた米子方面の状況を視察し、農業への被害がないことを確かめて農民を説得した。

 そして当時農地としては良くなかった上井を鉄道関係施設用地として提供。1903(明治36)年に境港から上井まで山陰線が開通し、この駅は倉吉線と称した―。

 倉吉町は今の倉吉市打吹地区で、当時商工業が最も栄えていた所。ただ、初めに駅ができたのは北に離れて位置する上井地区だった。

◇     ◇

 倉吉町民は倉吉町を鉄道が通らないことに不便不利を感じ、鉄道敷設を請願した。1912(明治45)年、上井~倉吉間に軽便鉄道が開通。終点駅が倉吉駅となり、従来の山陰線倉吉駅は上井駅に改称した。

 軽便鉄道は1941(昭和16)年に関金駅まで開通、1958(昭和33)年には山守駅まで開通した。そして1971(昭和46)年に、山陰線上井駅を「倉吉駅」、倉吉線倉吉駅を「打吹駅」に改称することが決まった―。

 しかし、1968(昭和43)年に発表された国鉄ローカル赤字線廃止の答申の中に倉吉線が含まれる。倉吉市などは反対期成同盟会を結成し、「乗って守ろう倉吉線」の乗車運動を繰り広げるなどしたが、倉吉線は1985(昭和60)年3月末で廃止となった。

◇     ◇

 倉吉線の廃止で中心市街地の吸引力低下に拍車がかかる。倉吉市ではその後、「玄関口」の上井がにぎわいの中心となっていく。

D51、京都夜行、急行みささ

倉吉駅を出発する倉吉線のキハ58系

 では、「全盛期の倉吉駅」はどんな様子だったのだろう。

 塚根さんは中原さんから提供を受けた写真を基に、関係者に取材し、昭和40~50年代の倉吉駅をパネル上に再現している。

 倉吉駅には隣接する「神鋼」への引き込み線があり、手動式遮断機、転車台、貨物列車引き込み線があった。天神川鉄橋までは複線だった。

貨物列車引き込み線で貨車入れ替え作業をするD51形蒸気機関車(1970年7月15日)
上井駅を出発する上りD51貨物列車(1969年10月12日)

 貨物列車引き込み線は現在の南口駐車場付近にあり、60代男性はD51形蒸気機関車との思い出を語る。「放課後に自転車をこぎ、D51の入れ替え作業を見に行った。停車中のD51の運転室に乗せてもらったが、燃える石炭の熱が熱かった」

 70代の元倉吉駅職員は貨物列車について「カチンコチンに凍った魚が運ばれてきていた。七輪(しちりん)で焼いて食べたが、焼けるまでに時間がかかった」。

 倉吉駅に停車中の列車の写真は貴重だ。SLの京都夜行(普通列車「山陰」)の思い出では、「翌朝、顔を見ると鼻の周りが黒くなっていた(笑)。同じ頃に大阪夜行(急行『だいせん』)が走っていた。一番遠くは金沢まで列車(急行『大社』)が走っていた時があった」(80代元国鉄機関士・車掌)。

 京都夜行は1975~1985年にかけて、「山陰」という愛称を付けて京都―出雲市(386・2キロ)を走った夜行列車で、1968年10月から寝台車を連結して運行した。1985年3月廃止。

 目を引くのは倉吉―大阪を結んだ「急行みささ」。倉吉駅の全盛期を知る列車で、「集団就職、正月・盆の時期は乗車待ちの長い列が駅の外まで出来ていた」(80代元国鉄車掌)

 「みささ」は1960年10月に準急列車として運行を開始、1966年3月に急行列車となる。「みささ」の列車名はいったん廃止になったが、1975年3月に愛称が復活。倉吉・鳥取駅―大阪駅(因美線・姫新線経由)の2往復運行となったという。

寝台特急出雲3号(多客時客車12両・重連)

 パネル展では、昭和40年代の上井駅正面や駅前広場、煙を上げ上井駅を出発する上りD51貨物列車のほか、寝台特急出雲3号など懐かしい写真も。1968(昭和43)年10月改正の時刻表も展示している。

橋上駅舎…中部の玄関口に

鳥取県内初の橋上駅の供用開始を報じる日本海新聞(2011年1月16日)
鳥取県内初の橋上駅の供用開始を報じる日本海新聞(2011年1月16日)

 倉吉駅は鳥取県で初めて改札口が2階にある橋上駅で、駅舎で南北の交通が分断されないよう自由通路(幅6メートル、長さ46メートルの歩道)を設けている。

 外観は伝統的な倉吉の町並みをイメージし、黒のタイルと茶色の格子を用いたデザイン。エレベーターやエスカレーターがあり、バリアフリー化されている。新しい駅舎での営業は2011年1月15日にスタートした。

 また、駅舎と一体化した「エキパル倉吉」は多目的ホールを備え、駅東側には土産物などを扱う物産館「くらよし駅ヨコプラザ」、観光案内所や行政サービスコーナーがある。

 自由通路の開通式と新駅舎の竣工(しゅんこう)式では、石田耕太郞倉吉市長が「南北一体のまちづくり、広域観光の玄関口として交流人口の拡大につなげる」と期待を述べた。

 倉吉駅は1日に約4500人の乗降客が利用している(「風土記」)。鉄道は通勤・通学の足であり、観光面でも大きな役割を果たす。県中部には四つの温泉地があるが、「特急スーパーはくと」が発着する倉吉駅はまさに中部の玄関口となっている。

 ※肩書は当時。ふるさと遊誘駅舎館を通し、列車の写真は中原研二さん(上井駅を出発するD51貨物列車は所蔵写真)、旧駅舎の写真は上井地区振興協議会から提供を受けたものです。

倉吉駅3番ホームにある橋脚と石碑=2023年12月22日

◆倉吉駅3番ホームに置かれている橋脚と石碑
 橋脚は1908(明治41)年、帝国鐵道庁神戸工場で製造。倉吉駅の跨線橋(陸橋)で使われた。2011(平成23)年の駅橋上化に伴い役目を終えたため撤去された。山陰鉄道開通当時の貴重な文化遺産としてこの場所に保存されている。石碑は山陰線開通の記念碑。

 ◆日本一遅い鉄道?
 倉吉線は、客車と貨車が連結した混合列車が多かったため、表定速度が時速20キロ以下の列車が9本あり、「日本一の鈍足列車運転線区」とも評された。特に「424列車」は西倉吉駅から倉吉駅までの6・8キロに27分もかかっており、表定速度は時速15・1キロで「マラソンランナーより遅い」と評された。(くらよし風土記)


駅彩る倉吉農高生の花

倉吉駅北口の花壇を整備する倉吉農高の生徒=2023年5月10日

 色とりどりの花でもてなし―。倉吉農高環境科フラワーデザインコースの生徒は、年間を通して駅北口花壇や南口のおもてなし庭園を整備し、構内に花を設置するなどしている。駅利用者や観光客、地域住民に喜ばれている。

 駅舎「エキパル倉吉」を管理するNPO法人ふるさと遊誘駅舎館が依頼し、毎年協力している。

 2023年5月10日は3年生6人が、自分たちが育てた花苗を使って駅北口の花壇にマリーゴールドやサルビア、ケイトウなど約350株を植え、駅周辺を彩った。

 植栽にあたっては生徒らが案を出し合い、投票で選ばれた「リボン」「規則性順守」「カラフル」「花盛」の四つのデザインを元に、学校で種から育てた。

 生徒らはビニールマルチの代わりに木材チップを使うなど、環境にも優しい花壇づくりをした。

 同年11月には同コース3年の生徒が育てた大菊などがJR倉吉駅に展示された。白や黄色など大ぶりで華やかな菊の鉢が並び、駅利用者の目を引いた。

 遊誘駅舎館は駅周辺の環境整備に貢献する倉吉農高に感謝状を贈っている。

◆NPO法人ふるさと遊誘駅舎館
 2008年4月14日設立。官民一体となり、鳥取県中部の情報と交流の場を提供し、遊びを誘うように人が集い、にぎわいのある館を創出する―を理念とする。多目的ホールや駅南口・北口駐車場を管理運営し、「エキパル倉吉の七夕」などのイベントを開催している。


倉吉市の〝百年の大計〟
駅周辺まちづくり構想

現在のJR倉吉駅北口=2023年12月22日

 JR倉吉駅の橋上化と自由通路による南北一体化は、倉吉市の〝百年の大計〟を描いた大型プロジェクト「倉吉駅周辺まちづくり構想」の主要事業だった。

 駅北側は、駅南に比べて商業集積や住環境の整備が遅れていた。倉吉駅から湯梨浜町にかけての河北地区は土地区画整理事業によって生まれ変わっている。

 駅北では、駅周辺の再開発が懸案となっており、2001年に倉吉駅周辺まちづくり構想が策定された

 これを軸にして南北の動線をつなぐ道路網が整備され、国道179号の交通アクセス、橋梁(きょうりょう)を含む上井北条線、踏切を除去する倉吉江北線、上井羽合線、上井海田東町線などの整備事業が実施された。

 また、駅北には上井公民館、市営集合住宅も建設され、徐々に新しいまちづくりが具体化してきた。

 倉吉駅周辺整備の中核となる橋上化事業は、JR山陰線の線路をまたぐ「橋」に相当する自由通路を整備し、歩いて行き来できるようにする。自由通路は鳥取県で初めての立体都市計画になった。

 橋上化に伴う総事業費は当初計画の倍近い約22億円に膨らんだが、半分は交通結節点改善事業、40%をまちづくり交付金事業、さらに合併特例債事業を組み合わせて、市の持ち出し分は約4億2千万円に抑えた。

 市は2008年3月に橋上化事業についてJR西日本と基本協定を締結。同年6月から自由通路や駅舎などの詳細設計に入り、2009年度に着工した。

 自由通路ができたことで駅北からの利便が良くなった。一方で、駅北開発は当初のもくろみ通りにはなっておらず、市有地が今もそのままになっている。
 

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