澪標 ―みおつくし―

大阪を伏せて東京へ進出

西村 卓朗
西村機械製作所会長
2019年12月23日

 昭和52年35歳の春、父親が専務だった私に突然「9月から社長をやれ」と…。当時は9月決算で、どうやらその年の業績がとてもよく退職金をもらうにはグッドタイミングだったようです。父親は会長になって、交代する事になりました。

 心の準備もなく、まだその器にもほど遠いのに、強引に押し付けられるように社長になったのです。それから5年余りは二頭政治状態で、40歳になるまでの5年間は真の社長になるための予行演習でした。当時は時代も良かったので、親心から試練を与えてくれたのです。

 ちょうど、八尾JC(八尾青年会議所)の副理事長の活動も忙しくなり、その上、理事長になる意欲も出てきていました。そして39歳の時に社長と理事長の二足のわらじを履き、何とか若さと勢いで乗り越えたのでした。よく「立場は人を育てる」や「人を変える」と言われますが、まさにこの名言を地で行ったので、この時の経験が自信になりました。

 そんな中、事業を拡大するためには東京進出は第一目標でした。小、中学校が同じで仲良しの住吉重機械の営業マンの川中君とは一杯飲みながら、よく情報交換をしていました。彼は学校でもトップクラスで、一橋大学を現役で合格して名門の住吉重機械に入社。大阪支社勤務を10年ほどしてから後、東京本社勤務になり、若くしてプラスチック成型機械課の課長になりました。

 昭和52年ごろは既に東京の市場は大阪の3〜5倍あり、彼からは「早く出て行かなアカン」と会うたびに促されていたので、思い切って出ることにしました。そして昭和54年に、西日暮里に東京営業所を開設したのです。

 最初は大阪から連れて来た設計士と2人で始めました。しばらくして営業マンを募集するために新聞に広告を出したのですが、電話がかかってくるとガチャンと切られるのです。私か設計士が出て一言しゃべるのですが、これが何回か続くと、どうやらこの大阪弁が良くないのではないかということに気付きました。

 東京弁の若い女の子の募集は厳しいので、職安(ハローワーク)へ行って、50代の女性を事務員に雇いました。江戸っ子の彼女に電話に出てもらうと、通話が続き面接に来てもらえるようになりました。まだ事務所は狭く、面接の場所は西日暮里駅前の「ルノワール」という大きな喫茶店でした。面接がダブった場合は端と端に私と営業課長の弟(現相談役)の二手に別れて面接し、やっと一人の営業マンを雇う事ができました。

 その頃のルノアールは東京のJR駅前には必ずあって雰囲気も良く、どこも広いスペースで面接や打ち合わせには好都合な喫茶店でした。今はチェーン店がたくさんできてルノアールはあまり見なくなり寂しいですが、駅前のオアシスでした。

 当時、浪速の商人(あきんど)は“がめつい”と…。ちょうど舞台では「がめつい奴」の上方物や、坊さん作家・今東光の「悪名」が有名で映画になり、大阪人はがめつくて商売上手、「東京人はだまされんように」という状況でした。大阪の企業を伏せた名刺を作ったり、極力、大阪であることは出さずに営業しました。大阪の企業であることが分かると「もう帰って!」と。東京のお客さんは東京のメーカーで間に合えば、わざわざ大阪のメーカーで買いたくないという風潮でしたので、売り込みも大変でした。

 また、これから大企業の実力営業課長の川中君のレクチャーを受けながらおいしいお酒をと思っていた直後でした。よく出張していたインドネシアの風土病にかかり、彼は45歳の若さであっけなくこの世を去ったのです。残念でなりません。

 (大阪府豊中市、にしむら・たくお)



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