澪標 ―みおつくし―

世界の恒久平和を祈る

金岡 重雄
株式会社カナオカ機材代表取締役会長
2020年9月21日

 太平洋戦争の終戦から、はや75年。戦前・戦中を知る人の割合が随分と少なくなってきた。

 その一人である、昭和12年生まれの私は、子どもの時に経験した戦争の恐ろしさをいまだに忘れることができない。夜中になると、異常なサイレンが響きわたり、「空襲警報発令!空襲警報発令!」のアナウンスが流れる。すぐさま慌てて防空頭巾をかぶり、防空壕(ごう)を目指して突進する。空を見上げると、焼夷(しょうい)弾が白い軌道を描いて雨アラレのごとく降り注いだかと思うと、パッと空が真っ赤に燃え盛る。遠くなので爆発音こそ聞こえないが、そのすさまじさが想像できる。このような情景が毎日のように繰り返された。

 食糧も配給制で乏しく、学校の運動場を耕してサツマイモなどを植えて飢えをしのぐ手だてとしていた。誰もがいつも空腹で栄養失調状態。太った人など一人もいなかった。病に倒れてこの世を去る人を数限りなく見てきた。

 昭和20年8月6日に広島、8月9日に長崎と相次いで原子爆弾が投下され、6日後の8月15日、近くの郵便局から玉音放送が流れてきた。よく聞き取れなかったが、「戦争が終わった、負けた」ということを知らされ、子ども心にも、この先どうなるのだろうかと不安でいっぱいだった。

 戦後の混乱期に生活することは、並大抵のことではなかった。至るところに露店が並び、物々交換が当たり前。地方への買い出しで、電車も汽車もあふれる人で鈴なり状態。法律も規制もあってもないような状態で、機転の利く者がひともうけして財産を残す。そうした中、進駐してきた米兵のスマートな振る舞いに、子ども心にも怖さとカッコよさにあこがれたものだ。

 昭和天皇が連合国軍総司令部(GHQ)に赴き「戦争の責任はすべて私にある。国民の生活が困らないように、連合国の援助をお願いしたい」と身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披歴されたと後で知り、その慈愛あるお心に感動したことを鮮明に覚えている。このお心があったからこそ、今日、われわれ日本人が平和と安寧を満喫することができていると思っている。

 ところで、私の父は律義で誠実な人で、100年続いていた植木屋を経営していたが、戦後の混乱期で家業がはかばかしくないところへ、近所の失火で全焼した家を建て直そうとして、また家長として一家を支えようとした重圧が双肩にかかり、心労が重なったためか49歳の若さで亡くなった。私が10歳の時だった。

 そのため5人の子どもを抱えて一心不乱に働く母の姿を見た私は、新聞配達をして母を支えた。その時に、人さまの温かさや冷たさを痛いほどに味わった。

 私は、小学生の時に事故と病で生死のふちを2度さまよったが、母の手厚い看護と祈りで奇跡的に帰還した。この時の臨死体験が「生きているのではない。生かされているのだ」という私の人生観・死生観の原点になっている。

 新型コロナウイルスの感染拡大で、私たちはかつてない苦境に立たされているが、賢明なる人類は、必ずやこの窮地を克服できるものと確信している。世界中が、一日も早くかつての状況を取り戻さんことを願ってやまない。(大阪府東大阪市、かなおか・しげお)



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