大阪発 羅針盤

 地域の取り組みや課題、人々の動きや思いを通して大阪の明日、日本の未来を展望します。

淀屋闕所310年

2014年5月12日

閉塞した時代に活路 豪商が残した「教訓」

高層ビルに囲まれた中之島蔵屋敷跡の発掘調査現場=10日、大阪市北区
ビジネス街の淀屋橋近くに立つ淀屋屋敷跡の碑=大阪市中央区

 高層ビルが立ち並ぶ大阪・中之島は、江戸時代に各藩の蔵屋敷が集積した。その蔵屋敷跡を発掘調査した大阪市教育委員会による10日の現地説明会に、当時豪商だった「淀屋」を顕彰するグループの姿があった。中之島を開拓した淀屋が、幕府の命によって財産没収と大坂追放の闕所(けっしょ)になった1705年から来年で310年の節目。淀屋の足跡を再評価し「閉塞(へいそく)した時代」に活路を開く試みが加速しつつある。

 「潮の満ち引きによる難工事も乗り越えた。勇気と先見性があった」。現地説明会に訪れた淀屋研究会代表の毛利信二さん(71)は、往時を想像して淀屋の業績に敬服したという。

 ススキやアシが密生する砂地だった中之島に着目した淀屋初代の常安(じょうあん)が、徳川家康に願い出て開拓を完了した1619年を境に大坂への蔵屋敷集積は進行。今回の発掘調査で見つかった4棟の土蔵跡は、蔵屋敷沿いの堂島川から荷揚げされた物資を効率的に搬入する配置を取っていたことを物語り、中之島一帯が「天下の台所」の象徴だった歴史を浮き彫りにした。

 淀屋が闕所になった原因は「ぜいだく」「おごり」と当時の大坂人は受け止め、生活の質素、倹約を進めるきっかけになったとされる。しかし、淀屋が残した「教訓」はこれにとどまらず、暖簾(のれん)復活を期した商人魂にあった。

「勇気と先見性」に目を 温故知新、実行の時

 中之島の開拓をはじめ米市の設立、青物市の再開などを手掛けて「日本一の豪商」と呼ばれた淀屋だが、持ち過ぎた財力は1705年、闕所(けっしょ)の憂き目を招いてしまう。その300年後の2005年に発足した淀屋研究会の目的は、淀屋に関する真実の探求。着目している点が、山陰地方の鳥取県倉吉市にあった旧商家「牧田家」との密接な関係だ。

■来年10月にサミット

 「闕所の約60年後、淀屋跡地に淀屋清兵衛を名乗る商人が活躍している。倉吉の大蓮寺には牧田家代々のお墓と共に『大坂淀屋清兵衛』と刻まれた供養塔が建てられている」

 淀屋研究会が06年に編集した図録『淀屋の歴史と偉業』に寄稿した長谷川稔倉吉市長(当時)は、地元と淀屋の関係をそう伝えている。

 つまり、淀屋は倉吉でひそかに暖簾(のれん)をつなぎ、元の淀屋橋で淀屋清兵衛を公称して再興した。その後、1859年に突如、大坂と倉吉の店を閉鎖し、資金を朝廷に献上してこの世から去ったというわけだ。

 しかし、長谷川市長と対談した関淳一大阪市長(当時)は「闕所の真相も含めて分からないことが多い。淀屋の屋敷跡の碑にこの地とのよすがを伝えるのみ」と同図録に言及。淀屋の足跡が“伝承”の域にとどまる現状に対し、淀屋研究会は、闕所310年に当たる2015年10月10日に「淀屋サミット」の開催を通して足跡を深掘りする意向だ。

■歴史に活路を

 研究会と関わりのある作家の新山通江氏は、暖簾復活を期した淀屋4〜5代の商人魂を描いた著書『真説淀屋辰五郎』の巻頭で次のようにつづっている。

 「閉塞(へいそく)した時代の、あるいは個人的な憂い事の、活路を開いていただくヒントが見つかりますように」

 折しも、今後30年間で20〜30代の女性が半分以下に減る自治体は896市区町村に上るという試算が8日に発表されたばかり。東京に続く第2の都市である大阪市内でも郊外や再開発未定の大正、浪速、西成、住之江、中央の五つの区が半減するなどまさに「閉塞した時代」を迎えている。

 だからこそ「勇気と先見性」(毛利信二研究会代表)を持っていた淀屋の足跡に目を向け、民間活力が地域を発展させた大阪の歴史に学びたい。温故知新を実行する時である。