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大阪ヒト元気録 |
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2009/02/25
ごみ減量から生活見直し 「ゴミの減量から暮らしを見直しませんか」−。特定非営利活動法人(NPO法人)ごみゼロネット大阪事務局長として多彩なイベントを企画。地球環境を守るという壮大なテーマに対して、個人ができる取り組みの大切さを考え、実行に移すことを推進している。 ■事業拡大下水整備の仕事の傍ら、環境にかかわるさまざまな市民活動に参加してきた。同法人での活動はそのうちの一つで発足当初(二〇〇〇年)からのメンバーだったが、〇七年十月からは事務局長として専念することを決心。懸案であった事務局の常駐体制を実現することなどにより、〇八年度の事業規模は〇六年度と比較すると約二・五倍、八十企画で約七千人の参加者を集めた。「煩雑だった助成金を得るための手続きも精力的に行い、新しい取り組みにつなげることができている」という。 ■「少しずつ」昨年九月にスタートさせたのが「マイ・マイ・クラブ」。マイカップ、マイバッグ、マイはしなどの利用を推進する活動で、会員になるメリットを「メーリングリストによる会員同士の意見交換」「エコに関する情報の取得」としている。また〇七年から事務所を置いている港区での活動も充実させている。三月には「港区まちづくり活動補助金」の交付を受けて、同NPOの人気企画である廃油によるアロマキャンドルづくりなどを行う予定。「何から何まで環境にいいことを行うのは難しい。わたしたちができることを少しずつ続けることが大切」とアピールする。 ■講師養成へ活動の充実に伴い、イベントへ派遣する講師が不足しており、これを解消するのが当面の課題。「サポーター的な人を増やして活動を多くの人に伝えていきたい」という考えで、講師養成講座の開催にも力を入れている。「環境問題に取り組むことで目標などを意識しなくていいと思う。未来の子どもたちが安心して暮らせるようにしたいという気持ちがあればいい」 |
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2009/02/18
伝統野菜を身近に 玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)をはじめ、なにわの伝統野菜を利用した地域活性化に取り組み、玉造黒門越瓜出隊(うりだしたい)の代表を務める長谷川寧子さん(32)。料理店のおかみとしても伝統野菜を使った家庭料理を提供している。 ■出合い看護師として働き、雑貨店やカフェバーを運営していた長谷川さんがなにわの伝統野菜と出合ったのは二〇〇五年ごろ。玉造稲荷(いなり)神社の禰宜(ねぎ)から玉造黒門越瓜のことを聞き、伝統野菜に関心を持った。地元の高校生とのコラボレーションによる伝統野菜クッキーの開発や普及活動に積極的に参加。伝統野菜についてより深くかかわりたいと思うようになった。「なにわの伝統野菜は長年大阪で育ってきたもの。その一つ一つにさまざまな歴史がつまっている」とその魅力を話す。■料理店昨年十月ごろ、知人から開店六年目を迎えた店「as(アース)」(中央区安堂寺町二丁目)をやってみないかと持ち掛けられた。「何事もまず行動しよう」と思い切って引き受けた。なにわの伝統野菜を使ったこだわりの家庭料理を味わうことができる店を、同年十一月二十七日にオープン。現在夕方から明け方まで営業している。■架け橋野菜は生産者のもとに赴き、採れたてを仕入れる。メニューはその日の仕入れ状況などに応じて変更。「野菜の旬や生産者を大切にしたい」と苦労を重ねて育てられた野菜たちをおいしい料理に変身させ、来店客にその魅力や生産者たちの熱い思いを届けている。なにわの伝統野菜の活動にかかわることで「“食べること”に興味が深くなった」と言う長谷川さん。これまでの経験と人との出会いが現在の活動につながっている。「先人が築いてきた歴史を継承し、多くの人になにわの伝統野菜を身近に感じてもらいたい」(長谷川さん)。三月からは昼の営業もスタートする予定で、店を拠点にして活動を続けていくという。今後の活躍にますます目が離せない。 |
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2009/02/11
美と技極め 世界をまたに 日本人離れした美しいスタイルを生かし、「ボディフィットネス」の分野でプロ(IFBB)に転向したアジア人、第一号。しなやかに伸びた長い手足と抜群の運動能力を基に、肉体美とアクロバットな演技の両面を競うアスリートとしてもアジアの頂点を極めた。 大阪・天満を拠点に世界をまたにかける日本の第一人者は、「少しでも周りの人にいい影響を与えていけるような存在でいたい」と今後の活動に胸を躍らせている。 ■バレエがルーツ小麦色の肌に日本人離れしたスタイルの持ち主は、淡路島で生まれ育ったという生粋の関西人だ。当時、一世を風靡(ふうび)した映画「フラッシュダンス」に魅せられ、学生時代は競技のルーツとなるバレエやモダン、ジャズダンスなどダンス全般にのめり込んだ。その後、米国で九〇年代初頭に始まった健康的な肉体の美しさとフィジカルを競う「ミスフィットネス」に出場。日本国内の第一回大会(一九九六年)で初代女王の座を獲得し、〇一、〇四年にはアジアタイトルも手に入れた。とりわけ〇四年は、別競技である「ミスボディフィットネス」(米では「フィギュア」)と併せたアジア“二冠”女王を達成。ロサンゼルスにあるサプリメントを扱う企業からオファーを受けたのは、その翌年だった。 ■米国で活動専属モデルとしての契約の関係で一年のうち四分の一は米国で過ごす。撮影時の衣装は水着がメーンで、フィールドは「山か海」。ロサンゼルスを中心にラスベガスやマイアミなどあらゆるロケーションが舞台で、エンターテインメントなど「身近でハイクラスを体感、吸収できる」とか。初代女王のタイトルを獲得したときは「勝つなんてこれっぽっちも思わなかった」という。順風満帆に見えるが、肉体を酷使するゆえにけがとも無縁ではなかった。そして、競技者として復活、モデルへの転向。「今までの経歴すべてをひっくるめて起用してもらっていると思う」。「人生にショートカットはない」と言い切る努力家は、今後について「世の女性にあこがれられるような美しい身体でいたい」と笑みをたたえる。 |
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2009/02/04
参加者が師、早朝の勉強会 早朝の貴重なひとときを学びの時間に充てる「朝飯会(ちょうはんかい)」。一九六三年に東京で生まれた、丸の内朝飯会を起源に現在では全国各地に同名の勉強会が広がった。九〇年から行われている大阪、「梅田朝飯会」の三代目代表世話人を務め、「参加者が師であり、気軽に参加できる学びの場」と魅力を訴える。 ■会との出会い梅田朝飯会は、丸の内朝飯会のメンバーの大阪への転勤で発足。毎回、多様な分野の専門家をゲストスピーカーに招いて勉強会を開催。来年四月で二十周年を迎え、開催回数は七百八十回を超える。「商売、政治、宗教抜き」を信条に現在では二十代−七十代まで幅広い世代が参加している。北区のハートンホテル西梅田のレストランで毎月二回、午前七時半から多くの参加者が熱心に講師の話に耳を傾ける。「早朝に学ぶには邪心を持っていては続かない。参加者自身も国家資格を持ち、講師を務めることができる。みんなで運営するスタイルだから長年続いてきた」と話す。 業務用化粧品の販売、化粧品の製造・開発のコンサルティングを手掛ける「サラウィン」の社長として会社経営を行っているが、脱サラ、起業への道のりの中で、「朝飯会」との出会いがあった。 二十二年間の会社員生活で十一回の転勤、転宅を経験。営業成績トップのベテランだったが、次第に「いつかは独立しよう」と思うようになった。九四年に大阪へやってきたころには、起業への第一歩として異業種交流会やビジネスセミナーに参加。「人脈を広げようと」九二年に「梅田朝飯会」と出会う。 「仕事帰りのセミナーなどが多い中で、早朝に学ぶ会はすがすがしく新鮮だった」と振り返る。会の趣旨に賛同し、出席を重ね、人脈を築いた。九九年に会社を設立。「サラウィン」の名は「脱サラ」のサラに「勝利」のウィン。ビジネスの成功を誓った社名を付けた。「税理士や社労士、弁護士など商売の関係抜きで相談に乗ってくれるメンバーが起業への後押しをしてくれた」。 ■代表世話人に会社も軌道に乗り始め、代表世話人に就任したのは三年前。会の存続が危ぶまれた時期だった。二十年近い歴史を守り、運営を効率化するためにメーリングリストの導入や全国の朝飯会との情報交換など、会の存続に尽力。一時は参加者が数人まで減っていたが、次第に十人、二十人と増え始めた。「意識の高い人が集まってくれるようになった。運営に協力的な人が増え、活気が戻った」と笑顔を見せる。定期的に勉強会の感想を発表する場を設け、会員同士の意見交換を実施。「個々の考えや意見を知ることで信頼関係が生まれ始めた」。節目の年を迎える今年は「会員三百人を目標に毎週開催していきたい」と意気込む。 |
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2009/01/28
自由な発想、個性的な作品 白い半紙がキャンバスになり、自由な発想で“字”が描かれていく。その象形文字のようなデザインをTシャツや看板に取り入れる。さらに、篆刻(てんこく)も手掛け、絵柄や字を彫ってオリジナルのはんこを制作。それらの作品は海外でも販売されるなど、評価は高い。現在は会社勤めと創作書藝デザイナーの二足のわらじを履くが、今後は独立を視野に活動の幅を広げていく。 ■物作りが好き「料理、手芸など、とにかく物を作るのが好きなんです。できた時の楽しみと達成感がありますから」と葉香さんは相好を崩す。「石を彫り始めたら集中して時間はすぐにたちますね」と日々制作に打ち込む。本格的に商品として作り始めたのは十年ほど前。それまでは趣味として制作を続けていた。「スタンプ感覚で使って、スタンプより味があるような、若い人が好むかわいいはんこを」と作品を手掛ける。 さまざまな大きさの石の面に「印刀」という道具を使って絵や字を彫る。「細かいところは欠けてしまうので」と集中。絵や字のデザインのはんこを組み合わせ、色を変えるなどして一つの作品に仕上げる。これが個性あふれる名刺やポストカードになる。 ■表現を引き出す固定観念にとらわれず、自由に自分の発想を表現するという原点は幼いころにすでにあった。「描いた絵が服のデザインになったり、ぬいぐるみになった。オリジナルが好きだったし、それを表現したいという思いがあったと思います」制作活動の傍ら、書道教室も開く。ただし、この教室はうまく書くための教室ではない。「楽しく、自由に発想して字を書いてもらい、表現してもらう。紙の中にどうデザインするかは自由。『意外とできるやん』という新しい発見をしてもらいたい」と、“なんちゃって芸術家”を生み出している。 ■3年後に独立現在はオーダーの受注が中心。「その人が何をイメージしてるのかをできるだけ聞いて、満足してもらえる作品を作りたい」表現手法は手描きが中心。「微妙な強弱や動き、偶然、不規則から生まれる調和のようなものを表現したいから」。夢はアトリエを構えて創作活動に専念すること。「それは三年後かな」 |
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2009/01/21
伝統途絶えさせない 住吉区住吉二丁目の住吉大社でお正月に授与される麦わら製の縁起物「住吉踊り」を手掛ける職人・松谷吉彦さん(79)=住吉区=。長年にわたって作り続け、妻の八重子さん(77)と二人三脚で大阪の伝統を守り続けてきた。 ■縁起物「住吉踊り」は同神社に伝わる無形文化財、御田植神事の中の住吉踊りをかたどったもの。天井からつるしておくと商売繁盛、家内安全のお守りにもなるといわれている。麦わらで円形に編んだ一重傘の周りに赤い布を垂らし、その中に麦わら人形の踊り子四体を五枚ザサにつり下げている。大きいものから小さいものまで約十種類。傘の部分を吉彦さんが、人形を八重子さんが担当。地道に製作に励み、正月までに約三千個を用意するという。■身に付いた技術同大社の近くで生まれ育った松谷さん。家業だった縁起物作りを親や兄弟たちを見本にして小学二年生のころから始め、自身の手と目で技術を身に付けてきた。以前は安立町から同大社周辺にたくさんの職人たちがおり、縁起物を作ってきたが、材料不足や時代の変化によって年々減少。今では夫妻だけになってしまった。「伝統を途絶えさせたくはない」との思いから七十年以上「住吉踊り」を作り続け、技術を磨いてきた松谷さん。仕事をしながら夜なべして作業に当たった時期もあった。「時間がかかって大変だった」と言いながらもその表情はにこやかだ。 ■体力続く限り以前に比べ、縁起物を飾る家庭が少なくなっているが、「これが無ければ正月が始まらない」と毎年欠かさず買い求める人も少なくない。そんな客に健康でいい年を過ごしてもらいたいと一つ一つ思いを込めながら麦わらを操り、丁寧に仕上げていく。「買ってくれた方が“いい年だった”と声を掛けてくれるとうれしい。やりがいがある」といきいきと話す。今年八十歳を迎える松谷さん。「自分の元気を他の人にも伝えたい」と話すほど元気そのものだが、心配もある。後継者難だ。確かな経験により培われた技術を伝え、歴史ある「住吉踊り」を残していきたいと考えている。 「とにかく体力の続く限り作っていきたい。一人でも多くの人に関心を持ってもらえれば」(松谷さん)。来年の正月に向けて今日もまた縁起物作りに取り組む。 |
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2009/01/14
「ものづくりが好き」 家屋模型、ゴム銃、三味線、その手に掛かれば木材たちが息づく。持ち前の技術を駆使した作品の数々は、細部にまで技巧が施された精緻(せいち)なものばかりだ。 「ものづくりが好き」と話す妹尾保雄さん=東住吉区=は、古希を迎えた今も共通の趣味を通じ、全国にその輪を広げている。地域の担い手としても活躍し、セカンドライフを謳歌(おうか)している。 ■ノウハウ少年のころから大工仕事や機械いじりに親しんだ。五年ほど前に退職するまで約四十年、合成樹脂を扱う大阪市内の企業に勤めた。営業や販売などあらゆる分野を担当したが、加工の際に金型を要したことから、「見よう見まね」で金属加工の機具を自宅に導入。オリジナルの作品に「やっている間にノウハウが分かってくる」と白い歯を見せる。■ミニチュア駅舎初めて世に送り出したのは、鹿児島県霧島市と熊本県八代市を結ぶJR肥薩線・嘉例川駅のミニチュア。歴史的にも価値のある木造建築で、全国紙に紹介されたことがきっかけで創作に取り掛かった。実物の二十分の一大に縮小された駅舎は、瓦や内装に至るまで忠実に再現され、オイルステンを塗って古めかしさを醸しだした。同駅に寄贈したことで地元紙にも紹介され、今も駅舎内に展示、保管されている。これをきっかけに、専門職である伝統工芸士らに教えを請い、技術力を高め、数多くの作品を生み出すことになった。 ■あくまでも素人自宅の玄関先に設けた八畳ほどの工房には、木製品や模型があふれている。作品は地域の郵便局や寄席小屋などにも展示され、実際に手を触れることができるとあって子どもたちに好評を博しているという。ふすまが開くなど実物を模した精巧な作りだが、「触って、壊れてしまってもいい」と話す妹尾さん。なぜなら「あくまでも素人の作品」。楽しんでもらうことに主眼を置いている。■「メタル」工房同時にブログを開設し、ハンドルネームは友人に薦められ「メタル」に。転じて、自宅に設けた作業場はいつしか「目樽(=メタル)工房」と呼ばれるようになった。製造工程を写真に収め、ホームページ上にデータを掲載したところ、伝統芸能を研究する大学生から過程の誤りを指摘されることもあるという。引退してからはむしろ、全国各地にいる同じ趣味を持つ仲間との接点が増した。寄席小屋や能舞台のミニチュア、また日本ゴム銃射撃協会東住吉区支部長としてもゴム銃製作にいそしむ妹尾さん。「ものづくりは何でもチャレンジ」。少年のようにニヤリと笑う。 |
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2009/01/07
新舞踊の魅力を知って 演歌などをバックに踊る新舞踊の魅力を関西から全国へ発信している。現在は京都テレビ・歌番組「芸能夢舞台 京都歌めぐり・踊り絵巻」(毎週木曜前8・30)を総合プロデュース。関西で少なくとも六百はあるというさまざまな流派の踊り手の成長、活躍の場にもなっている。 ■需要を実感長年勤めた広告会社を退社後、サンテレビ・舞踊番組「芸能夢舞台」をプロデュースすることに。それまで踊りとはほぼ無縁の生活だったが、周囲の助けに支えられながら、一九八八年のスタートから約十年続く長寿番組に育て上げた。放送したことで「踊りに興味ある人には子育てを終え、何か新しい生きがいを見つけようとしている女性が圧倒的に多い。そういう人たちが朝のワイド番組ではなく、こちらを見てくれた」と新舞踊の需要を実感した。 ■アマ視線を意識放送終了を惜しむ声を受けて、今年五月にスタートさせたのが京都テレビ・歌番組「芸能夢舞台 京都歌めぐり・踊り絵巻」。こちらは幅広いジャンルの歌と新舞踊、そして双方のコラボレーションが楽しめる内容となっている。意識しているのはプロではなく、“アマ”の視線だ。「サンテレビ時代も一般の人の口コミで広がり、人気が出た。見る人と出る人の距離が近いのがポイント」と中野さん。出演者はプロだけでなく、インターネットなどで幅広く募っている。 新番組では地域密着の視点も取り入れている。歌や踊りの華やかさとともに収録地の特産品や歴史といった情報も発信することで、「地域活性化に貢献したい」という考えだ。 ■個性を体で表現関西新舞踊協会は、新舞踊が世間にしっかりと認知されるように、中野さんが中心となり二〇〇三年に設立。関西で活動する新舞踊の約七十流派が所属し、年一回の発表会などを開催している。設立から約五年、新舞踊の認知度は年々増しているとのこと。「歌が下手、踊りが下手でもいい。自分の個性を体全体で表現し、楽しみたい人はぜひ新舞踊を体験してもらいたい」とアピールしている。 |
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2008/12/24
成長への“気付き”伝える 発達障害のある子ども、親へのサポートや幼稚園での体育指導に携わる傍ら、目標達成のために個々にあった考えを指導者に教える「コーチング講座」を開講。障害者スポーツに長年かかわってきた経験に独自の視点を加えた指導法で、障害の有無を問わず多くの人たちに成長への“気付き”を伝える。 ■一歩を踏み出す大学卒業と同時に大阪市の障害者スポーツセンターに就職。日本における障害者スポーツの黎明(れいめい)期に、同センターでは初めて福祉を専門に学んだ職員として仕事を始めた。「当時は障害者スポーツ普及のため、結果を出す競技者を育てることが主流だった」と振り返る。取り組んだのは、重度障害のある人たちにスポーツの楽しさを伝える教室の開催。「『できるはずがない』と考える人たちに自分の足で一歩を踏み出し、自分でもできるんだということに気付いてもらいたかった」 ■確かな手応え体の動きや表情の変化など、指導を受けた人たちが成長を見せ始めた。生徒の成長に気付かされることも多く、「考え方が木っ端みじんになることもあったが、真っ白い人に色づけする指導法は誰にも負けない自負ができた」。次第に、指導員としてのプライドが芽生えていった。長年親しんだセンターを退職するのは二〇〇五年。大阪市の指定管理者制度導入により、教室の開催など、指導内容に縛りが生じた。二十年やってきた経験をフリーで試す。第二の人生が始まった。 ■余暇の使い方も発達障害のある子どものグループ指導を続ける中、障害者の余暇の使い方に疑問を抱いた。「家に帰っても友達がいない。余った時間の使い方が分からない。家にいることで親の負担も増加する」。レクリエーションの充実を目指し、スポーツDVDを作成。音楽に合わせて体を動かす体操をメーンに、字幕で視覚を刺激し、音楽や掛け声で聴覚に訴える。障害のある子どもたちと長年かかわってきた経験を盛り込んだ。「子どもたちが喜んで体を動かしてくれる。水泳や卓球版も作ってみたい」と手応えは十分。「子どもたちに気付かされたこともたくさんあった。子どもたちの本質や個性、考えを見れば自然とその子に合った指導が出来上がっていく」 |
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2008/12/17
社会正義貫きたい 現役の探偵が世の中の悪に向かって鋭く“メス”を入れる。知能派探偵・カミバタケトシハルさんは保険金事故調査を中心に保険モラル調査、個人・法人信用調査など、さまざまな調査活動を行う探偵だ。そして十月三十日に『現役の知能派探偵が語る「愚か者達による保険金不正請求の実例!」』を自費出版した。自らの経験を踏まえ、調査の“裏側”の実態を読者につぶさに伝えている。 ■33歳で留学福島区で学生時代を過ごし、大学を卒業後は金融機関に就職。「十年勤務しました」。しかし「このままでは金融の世界だけしか見えない。もっと世界的な視野を広げなければ」と、三十三歳の時に大きな決意で日本を飛び出した。平成元年七月、オーストラリアに語学留学。ビクトリア州立ラトローブ大学国際ランゲージセンターに入学した。留学期間は七カ月。「周りは十歳も年下の人たちばかり」の中で、日本人相手の観光ガイドなどで収入を得ながら、自らの視野を広げるために時間を過ごした。「留学して人生観が変わりましたね。何よりスケールが違う。オーストラリアの人たちは知らない人にでも気さくに声をかけてきます。この留学で人を愛することの大切さを教えられました」 ■金融から調査へ留学を終えて帰国し、再び金融機関に再就職した。「三日間で十五億円の案件を動かしていた」時代は、バブルの崩壊とともに崩れた。勤めていた金融機関が破たんに追い込まれる。四十歳を前にして職を失った。「銀行はつぶれないと思っていましたが…」それをきっかけに調査員に転身した。「学生時代に車の事故に遭って、保険会社の人にお世話なったんです。困ったときに接してくれた。素晴らしい仕事だと思いました」。保険会社に勤めることはかなわなかったが、調査員として保険会社と一緒に仕事をする道を選んだ。「老舗の調査会社で、保険調査の調査員を九年間やりました」 ■七転八起の精神「挫折の数だけ復活してきました。これが人生。七転八起の精神です」。信念は「機会は自ら見つけ出し、機会によって自らを変える」。今年の七月に独立し、総合調査業・探偵業「アップフラッグサービス」を設立した。そして本を出版。現在、「現役の知能派探偵が語る」シリーズの第二弾を構想中。「受けた仕事は責任を持ってわたしがやり通します。社会正義を貫くために仕事に従事したいです」同社のホームページアドレスは次の通り。 http://up-flag.com/ |
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