澪標 ―みおつくし―

自転車を支える手、すがる手

石橋英樹
数理言語教室「ば」主宰
2014年6月6日

 「わたしがこの子をこっちから追い詰めますから、先生は逃げ道をふさいでください」

 親からのこの種の要望が本当にたくさんあります。まるで、獲物を追い詰めて仕留める、といった口調と目つきです。狩られる対象となっているのは、自分の子だという、異様さはひとまずおいて、成績を上げることを、そのような追い詰め方と結び付けてしまう前提にある「信仰」について考えてみます。

 「学習時間を増やせば増やすほど成績が良くなる」ということと同様に、強固な「親や教師が関われば関わるほど成績が上がる」という信仰です。果たしてほんとうにそうなのでしょうか。

 子どもが初めて自転車に乗ろうとする場面を思い出してみてください。子どもは恐る恐る自転車にまたがります。荷台を支える親の方を振り向いては、ぜったい放さんといてな、と何度も確認します。

 さて、ふらつきながら、前に進みだす。こける。再度、挑戦。よろける。といったことを繰り返すうちに、徐々に感覚をつかんでいきます、どんどんバランスが取れるようになっていく。

 やがて、親は頃合いを見計らい、そっと手を放すはずです。しばらく子どもはそれに気づかない。でも独りの力で自転車はまっすぐに進んでいく。こうして、この子は自転車に乗れるようになる。それは多くの人の持つ経験でしょう。

 しかしもしもその荷台をつかむ親の手がいつまでも放れなかったとしたらどうなるでしょう?

 子どもはとうに独りで乗れるようになっているのに、どうしても荷台から手を放さないとしたら? しかもその形相は必死。左や右へ曲がる判断も進むペースも、いちいち後ろから渾身(こんしん)の力で制御してくるとしたら? これがどれだけ重荷(であり逆効果)となってしまうか。想像は容易でしょう。

 さらには、これが続けば、その子はやがて独力で進むこと諦める、もしくは、自分だけでも可能なのだと、そもそも知ることができないままになるかもしれません。

 しかし、事実上その種の発想による親や教師の関わり方がかなりの割合を占めてしまっていると私には見えます。

 教え手が荷台を支えるとしても、それは直(すぐ)に放すつもりで添えられる手であるべきです。そういう意識であるか、否か。これは目立たないですが、決定的に結果を分ける、関わり方(指導法)の核心であると思います。

 しかしなぜ荷台から手を放さないのか? むしろ放せなくなるのだと私は考えています。これは親だけではなく、教師も同様です。

 ではなぜそうなるのか? 子どものことを思って、であるのは確かで、かつ厄介な点です。

 続きは次回に。

 (いしばし・ひでき 京都府木津川市)