澪標 ―みおつくし―

わかる嬉しさ・わからん楽しさ

桂 蝶六
落語家
2015年3月6日

 「わからんけどな、わかってん」。それはとある小学校でのこと。その日の落語の演目は新築の家を褒めるが失敗を繰り返すという『牛ほめ』。「上がり框(かまち)が桜の三間半、上へあがって畳が備後表のよりへり、天井が薩摩杉のウズラ目…」。大人でさえあまり馴染(なじ)みのない言葉が続く。けれども児童たちは腹を抱えてゲラゲラ笑い通しだった。「今の咄(はなし)、どやった?」「うん、面白かった。…けどな、わからんかってん」「え? わからんかった? …けど、ごっつい笑ってたやん?」。その問い掛けに対して返ってきたのが冒頭の一言だった。

 落語は「想像」の芸だが、これには二通りある。一つは演者のことばや所作をヒントに頭の中に映像を並べていくという「想像」。もう一つは、前後の言葉や話の流れ、動作などをもとに、わからない言葉があってもそれを予測していくという「想像」。人間はオギャーと生まれ、いつの間にやら言語というものを習得していく。これとておそらく「想像」に「創造」を重ねての結果であろう。

 ぼくが初めて生で落語を聞いたのは高校のオチ研(落語研究会)だった。確か『壺算』という咄。ぼくはその上級生の演じる落語を食い入るように聴いた。下げを言い終わった上級生はぼくに感想を求めた。ぼくはすかさず「はい、よく分かりました!」と元気よく答えた。その上級生はきっと「面白かった」とでも言ってほしかったのだろう。ぼくの回答に少しぶぜんとした様子だった。

 しかし、落語の楽しみは先を予測する思考と、その末に待っている「なるほど」という納得、あるいは「そんな阿呆(あほ)な」という意外性にある。考える間もなく解答を告げられるクイズはつまらないし、ミステリー小説の結末を横からひょいと先に言われると無性に腹が立つ。人間はそもそも考えるのが大好きな生き物である。考えて、わかって、嬉(うれ)しかった。つまり、ぼくの「わかりました」は「面白かった」の同義語だった。

 そういえばぼくが入門して間なしのころだった。師匠(故・二代目春蝶)のこんな言葉を覚えている。

 「咄家は喋(しゃべ)ったらあかん」

 それを聞いた瞬間、ぼくの頭の中では疑問符が踊りだしたが師匠は見透かすようにこう付け加えた。

 「あのな、十喋って、十伝えるのは普通や。けど、わしらは違う。一喋って十伝えるようにせないかん」

 お客の立場から言うなら「全部喋られたら想像する余地がなくなる」だろう。

 あの子が言った「わからんけど、わかってん」。まさにそれは「想像」=「落語の楽しさ」を象徴していた。わからんことをわかろうとするその先に喜びが生まれる。落語の楽しさは学ぶ喜びでもある。

 (かつら・ちょうろく、大阪市城東区)