澪標 ―みおつくし―

蝶の花道−襲名に際し想ふこと

桂 蝶六
落語家
2015年4月17日

 ぼくのこのコラムも最終、蝶六の名前で原稿を書くというのもこれがおそらく最後です。このたび、三代目の「桂花團治」を襲名させていただくことになりました。

 そもそものきっかけは、先日お亡くなりになられた人間国宝・桂米朝師匠の新聞コラムでした。「大阪には玉團治や麦團治、花團治という名跡も空いている」

 それをたまたま目にされた花團治の孫にあたられる方が、娘さんにおっしゃったそうです。「あなたのひいじいちゃんはね、この花團治という落語家さんやったんよ」

 全てはこの一言からでした。米朝師匠には生きておられる間に直接お礼を申し上げたかったのですが、間に合いませんでした。

 米朝師匠とは楽屋でお会いするぐらいで、ほとんどお話ししたことがありません。まさに雲の上の人で、あいさつさせていただくのがやっとでした。

 でも、うちの師匠(故・二代目桂春蝶)はよく米朝師匠に叱られていました。それだけ目をかけていただいていたのでしょう。うちの師匠が米朝師匠に叱られているとき、ぼくはできるだけ気付かれないようにいつもそれを遠目に眺めていました。

 うちの師匠に稽古をつけてもらう際、「米朝師匠にな、ここはこう教えてもうたんや」というフレーズが度々登場しました。米朝師匠の恩恵を受けていない咄(はなし)家は、誰一人としておりません。

 米朝師匠のお通夜が営まれた千里会館に行ったのは22年ぶりのことでした。22年前はうちの師匠のお葬式。あの日も急に冷え込んだっけ…そんなことを思い出しながら登った坂道。米朝事務所の会長があいさつに立たれました。

 「…向こうへ行っても閻魔(えんま)はんに叱られるぐらい酒を飲みまんねやろな…飲みすぎんように、どうか健康にだけは気を付けてください」…米朝師匠、エエ寝顔してはりました。うちの師匠は向こうでまた叱られるんでしょうね。

 通夜の席、喪主で長男である米團治師匠からぼくは声を掛けられました。「蝶六!今、一番大変なときやと思うけどな、頑張れよ!! 応援してるさかいな!!!」。米團治師匠はぼくなんかよりもっともっと大変なのに。

 米團治師匠は葬儀のあいさつで父との思い出を語られました。家族旅行に行ったことがほとんどなかったこと。覚えているのは書斎にこもる父の後ろ姿。弟子の面倒をみる父の姿。そんなこんなを語った上で最後にこうおっしゃいました。

 「米朝はみんなのお父さん、落語の父でした」。米朝師匠が「父」なら、米團治師匠はぼくにとって頼れる「兄貴」です。もちろん米團治師匠に限らず、多くの師匠お兄さん方が励ましてくれます。

 ぼくがこのたびの襲名と米朝師匠の葬儀に際して思うのは、この落語家社会が一つの大きな家族であるということ。相手を思って叱り、励まし、相手の成長を喜び、たとえそれぞれが個人商店であっても「落語」そのもののステージを上げていこうという思いが全員にあります。

 これからも先達の思いを胸に精進していこうと思います。感謝。

 (かつら・ちょうろく、大阪市城東区)