澪標 ―みおつくし―

冬のイラン、40年

ダリア・アナビアン
ペルシャ文化の語り部
2018年6月22日

 今では町を歩いていると、ここは日本かと思うぐらい海外からのお客さんが急増し、外国人も珍しくなくなりました。

 私がテヘランから1972年に来日した当時、とても派手なおもてなしを受けました。両親と新幹線のプラットホームに立っていたら、制服を着た小学生の男の子たちが現れました。私たちにとっては、小さな子どもたちがきちんと正装していることが意外で印象的でした。彼らは私たち親子3人を見るなり「ハロー、ハロー」とあいさつし、一人一人握手を求めてきました。初めて見た外国人を歓迎する子どもたちの純真な振る舞いに感銘を受けました。

 イランは王政の黄金時代、日本も高度経済成長のまっただ中。そうした経済的なゆとりは文化的な関心を高め、多くの考古学者や歴史小説家がオリエント美術の研究をするために、日本美術に影響を与えたイランへ出かけていました。近鉄百貨店上六支店の部長もイランに古美術を求めていました。テヘランの目抜き通りである老舗が学者のたまり場になっているのを見て「大阪の百貨店でも出前店舗を作りまへんか?」と提案しました。老舗を経営していたのは私の祖父、ラヒム・アナビアン。

 イラン各地で正倉院御物とそっくりの円形切子白瑠璃碗や鶏頭水差しなどが次々と発掘され、考古学調査団は驚きの連続。オリエントブームが最高潮に達しました。祖父が経営していた老舗では7千年前の素焼土器からシルクロードの交易で流行した幻の青釉陶器までそろい、学者の遊園地のようでした。

 明治時代から西洋文化一辺倒だった日本人がオリエント文化に関心と好奇心が移ったことが、両親と私をテヘランから大阪へいざないました。近鉄百貨店の部長の計らいで大阪上六の近鉄百貨店で関西初のペルシャ古美術ギャラリーを開きました。日本各地の主な博物館にもアナビアンコレクションが納められることになり、大阪新聞(73年12月15日付)では「アナビアン・ギャラリーの本店はテヘランにあり、イランきってのペルシャ美術の老舗として知られており、コレクションは質・量ともにイラン国立美術館をしのぐほど…」と紹介されました。当時、多くの収集家が百貨店に集まりました。

 どの時代の出土品もワインを飲むための杯。イラン人はイスラム以前のゾロアスター教のセレモニーで何千年もさまざまな形の杯を造ってきました。飛鳥時代にやってきたイラン人は、酔胡王(よっぱらったペルシャの王様)として伎楽面にも表現され、ハオマ酒を造った酒船石も明日香に残されています。

 子どもの頃、毎年夏休みは顧客を連れてイランに里帰りしていました。

 78年。11歳の夏が最後の里帰りになりました。イランのそこかしこでイスラム革命の嵐が吹き、道を歩いているとき私は、へそ出しTシャツを注意されました。日本に戻ってニュースで王様の写真が燃やされている場面の報道が続きました。79年の2月、イスラム革命の指導者が亡命先のフランスからイランに戻り、女性の髪や腕の露出、女性が自転車に乗ること、チェス(王の駒を使うため)等が禁じられました。学校教科書のイスラム以前の1300年前の歴史は消され、発掘調査も禁止されました。イランの出土品も国外に持ち出すことが困難になり、日本のオリエント学者は活躍する場を失いました。アナビアン家は税関に1年間毎日通い、コンテナに文化財を詰め、上からガラクタをかぶせ、袖の下を払って大阪に送り込みました。

 それから40年がたち、当時の学者が出版した本も絶版になり、著者たちも一人二人と亡くなりました。オリエント文明の歴史は砂漠の霧のかなたへと消え去りました。

 情報が洪水のようにあふれる時代でも日本に伝わるイランの真実はほとんど皆無で、その溝をどう埋めていくかが課題です。日本と深くかかわってきた私がペルシャの歴史的変革を読者の皆さまにご紹介するきっかけとなったのは、「いい家塾」代表理事の釜中明さんです。

 不況のなかで大阪に避難させているペルシャ秘宝難民たちは、いい家に嫁ぐことを40年間待ち続けています。

  (神戸市中央区)