連載・特集

なにわ人物伝 −光彩を放つ−

名月姫(下)

2010年2月27日

能勢に貞節守り自害伝承 清盛の側室要請拒む

名月姫の墓(中央)=大阪府能勢町、名月峠
三善 貞司

 能勢(大阪府能勢町)には、兵庫県尼崎市とは異なる名月姫伝承が残っている。尼崎市では野遊びに出掛けた姫を、通り掛かった能勢の豪族能勢藤兵衛家包(いえかね)が見初め、無理に拉致するように連れ帰り夫婦になったとされるが、能勢では熱心に求婚し、ついに姫の両親三松刑部(ぎょうぶ)左衛門尉(じょう)国春夫妻の許しを得て盛大に挙式、仲睦(むつ)まじく暮らしたと伝える。

 ところが名月姫の美貌(びぼう)の噂(うわさ)を耳にした色好みの平清盛は、使者を差し向けて側室に出すよう厳命する。もちろん家包らは断ったから怒った清盛は、国春と家包を呼び、「聞き入れねば領地を没収し、姫もろとも汝(なんじ)ら2人を死罪にする」と脅迫した。やむを得ず夫婦は別れの水杯を交わし、姫はかごに乗せられるが、龍王山近くのさる峠に差し掛かったとき、懐剣でのどを突き自害した。人々は憐(あわ)れんでその峠を「名月峠」と名付け、貞節の鑑(かがみ)としていつまでも語り草にする。

 いや、そうではない。家包は理不尽な要求を拒絶したばかりか横暴な清盛を非難したため、清盛の大軍と合戦になる。華々しく戦うが多勢に無勢、家包は切腹、姫ものどを突いて後を追った。これが真相だとの説もある。

 現在名月峠(大阪府能勢町下田尻)に姫の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、その両脇の古びた五輪塔は、夫の家包と父の国春の墓だそうだ。

 面白いことに下田尻には、前回述べた三松国春の命を救った松王丸の墓がある。福原遷都を企てた清盛は、外国貿易の拠点として大和田泊(とまり)に兵庫津設置の工事に取りかかる。阿波民部重能(しげよし)を奉行に畿内の賦役(ふえき)人夫5万人を動員し、塩打山を崩して海面30余町の港湾化を試みるが、奔流のような潮水に勝てず、土砂流出しどうすることもできぬ。陰陽(おんよう)博士たちを召して卜(ぼく)させたところ、海底に竜神の住処(すみか)があるせいだ、怒りを鎮めるには30人の人柱と無数の石塊に一切(いっさい)経を刻んで捧(ささ)げねばならぬとの卦(け)がでたと報告を受ける。清盛は生田(神戸市)に関所を設け、通行者を順次人柱用に捕らえるが、30人目が国春であった。

 これを知った能勢家包は、知り合いで清盛お気に入りの小姓松王丸に助命を懇願する。松王丸は香川城主太井民部の嫡男松王丸健児(こんでい)(児童)のことで、まだ17歳の若者だったが、自分が人柱になり竜神に訴えるから30人の人柱を釈放してほしいと申し出る。渋る清盛も殿の慈悲深さに世の人たちは感動し、賦役人夫も身を粉にして働くにちがいないと説得され承諾、松王丸は経石とともに石櫃(いしびつ)に入り海底に沈んでいった。さすがの竜神も松王丸の義挙に心打たれたのか工事は順調に進み、後に兵庫港と呼ばれる碇泊(ていはく)所が竣工(しゅんこう)する。

 時は流れ百数十年もたったころ、京の陰陽博士阿倍泰氏(やすうじ)は、老後の静養にと下田尻の塩谷温泉(現存せず)を家族とともに訪れ、地元の人たちから松王丸の話を聞く。感動した泰氏は同地に「松王健児供養塔」を設け、冥福を祈るとともにその功を永遠に伝えることにした。現在下田尻450番地に、形の崩れた五輪塔4基と自然石1基が残るが、その一つがそれと伝える。

 阿倍泰氏は有名な陰陽学の大家安倍晴明の子孫だそうで、泰氏の発音が晴明の父保名(やすな)(俗説・実存せず)と似ているせいか両者が混同され、保名が妻の葛の葉(実は白狐・実存せず)を連れて塩谷温泉に湯治に来て大変気に入り、夫婦は当地を終焉(しゅうえん)の地と定めたとの伝説もある。通称「信田森(しのだのもり)」(バス停塩谷口北東)の稲荷(いなり)神社の前に、「阿倍保名石塔」が立ち、戒名まで刻まれているから、これらをたどるだけでも愉快になる。

 能勢の柏原・下田尻の女性たちは、貞操堅固で絶対に浮気せぬという。また花嫁行列は決して名月峠を越えない。哀れな生涯を閉じた名月姫に、幸せな姿を見せたくない心配りからだそうだ。

(地域史研究者)

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