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| 近松寺=大津市 |
日本のシェークスピアといわれ、上方の歌舞伎・浄瑠璃界に不滅の足跡を残した近松門左衛門抜きでは、「なにわ人物伝」は成立しない。大阪日日新聞朝刊化10周年を記念し、「門左と相棒たち」と題して二十数回連載したいと思います。
門左衛門は承応2(1653)年、越前(福井県東部)藩士杉森市左衛門信義の次男に生まれた。本名信盛、幼名次郎吉、通称平馬、別号平安堂・巣林子など。ただし彼は生涯「わしは田舎者じゃ」と言うだけで、過去を語らなかったから、長年幼年期の経歴は不明とされていた。しかし、大正14(1925)年、田辺密蔵氏が画期的な「杉森系譜」を発表する。
(1)祖父信重は秀吉・秀頼に仕えた武士。大坂落城後は片桐且元(かつもと)に拾われ、後に稲葉正則の家臣になり、千石を受領。
(2)信重の次男が市左衛門信義。越前松平忠昌侯に仕えたが致仕し、京に移って死亡。本圀(ほんこく)寺で葬。享年67。
(3)信義の長男は市三郎智義といい、織田長頼に仕え、江戸で没した。次男の信盛が近松門左衛門。三男伊恒(これみつ)は長頼の侍医平井自安の養子になり、岡本為竹(いちく)と称した医師。
考証が綿密で誰もが以降この説をなぞるが、昭和36(1961)年森修氏が、「信義は松平忠昌の幼い子供吉品(よしかね)に仕えた。明暦元(1655)年吉品は、吉江という地に分封されており、当然信義も当時3歳の信盛をつれて同行したはずだ。『越藩史略』に三百石杉森作右衛門と出ており、これが信義だと思われる。父信義がなぜ主家を離れたのかは分からぬが、なにかの事件で責任をとらされ、追放されたのであろう」と補足し、今ではこれが定説になっている。
次に母親だが、享保元(1716)年9月、当時京都にいた門左衛門は、母死亡の知らせを受け、悲嘆のあまり筆を折って茫然(ぼうぜん)となるが、四十九日が終わると今も彼の真墓のある広済寺(兵庫県尼崎市日久々知1丁目)で法要を営み、供養として秘蔵した「後西天皇直筆色紙」と、「阿野実藤法華経和歌集」を奉納している。過去帳には「享保元年九月九日、智法院貞松日喜」と記されており、時に門左衛門は63歳だから母は随分長生きしたことが分かる。この母は藩医の娘だったとの説もあるが、確実な資料は一切ない。
寛文9(1669)年浪人信義は、家族を連れて京都に移住している。生活は苦しかったと思われるが、文芸好きな一家は俳人山岡元隣に俳諧を学び、楽しみとする。同11年元隣が刊行した俳書『宝蔵』に、「白雲や花なき山の恥かくし 信盛 花を咲かせまた散らせるは異風哉(かな) 信義 盛りいかに散るはもてなす雪の花 喜里」など、杉森一家の句が掲載されている。喜里は門左衛門の妹。後に女流俳人として知られる。
『戯財(げざい)録』という古書に、「一家離散後門左衛門は肥後(佐賀県)の近松寺(ごんしょうじ)に預けられ、古潤(こじゅん)と名乗る小僧になり修行、やがて住職に出世し義門と改めた。しかし行脚に出るうち京で還俗(げんぞく)、公家に仕える」との内容があり、今も唐津の近松寺に「近松巣林子塋域(えいえき)」と刻まれた墓碑が残る。
しかし真実の門左衛門は、京で摂政・関白を務めた大物公卿(くぎょう)で、今は引退して風流に生きる一条恵観に奉公している。恵観は彼の文才を愛し、とりわけかわいがる。門左衛門の脚本に、なみはずれた古典的教養と学識があふれているのは、元隣と恵観のおかげである。
ところが寛文12(1672)年、恵観も元隣も病没する。19歳の多感な青年門左衛門は深く悲しみ、本気で仏門に入って菩提(ぼだい)を弔おうと大津の近松寺(大津市逢坂2丁目)に入っている。ここは桜の名所「長等(ながら)公園」の近くで、探訪をお勧めしたいが、『戯財録』の著者は、当寺を佐賀県唐津市の近松寺と取り違えたのであろう。
(地域史研究者)









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