日曜インタビュー

自分の食は自分で作る

ドキュメンタリー映画 「ふたりの桃源郷」
監督 佐々木 聰
2016年7月10日

農作業は生きること

「撮り終えてやっと作った意味が分かってきた…」と話す佐々木聰監督=大阪・十三の第七藝術劇場
「ふたりの桃源郷」の田中寅夫さん(右)とフサコさん

 山口県の山奥で暮らした夫婦の25年の生活を追ったドキュメンタリー映画「ふたりの桃源郷」(製作著作・山口放送)が23日から、大阪・十三の第七藝術劇場で公開される。現地ディレクターで映画を完成させた佐々木聰監督に「自分の食は自分で」「農作業は生きること」という夫婦に寄り添い、密着した思いを聞いた。

■夫婦の25年追う

 −山口放送が作った初めての映画。

 2002年から13年まで「ふたりの桃源郷」シリーズとして日本テレビ「NNNドキュメント」で放送された番組を、新たに撮影した映像を加えて再編集して1本の作品にまとめた。同番組からは「放射能を浴びたX年後1・2」「夢は牛のお医者さん」に続く3本目の映画で、山口放送としては初めての映画となる。

 −亡くなるまで山で生きた生活が描かれている。

 1938年に田中寅夫さんは24歳、フサコさんは19歳の時に結婚し、戦後戦争から戻った寅夫さんはフサコさんの故郷に近い山を買って開墾を始めた。しかし、娘が3人いたことで、高度経済成長の時代、大阪に引っ越し、寅夫さんはタクシー運転手で一家の生活を支えた。そして、3人が嫁ぎ、寅夫さんが65歳の時に夫婦は山に戻り、そこで2人はそれぞれ93歳で亡くなるまで過ごした。

 −夫婦に出会ったのはいつ?

 25年前に山口放送のローカルニュースで一回り上の先輩が撮った映像を見たのが最初。2人がキラキラした表情で「ステキだなあ」と思った。先輩は2人の山の生活に「自立」というテーマを見ていたが、それと違うということに気付き3年で取材をやめた。その後7年のブランクを経て、今度は僕が自分で「会いたい」と思って山の夫婦のもとに取材に行った。

■3人の娘の思い

 −映像の中の2人はとても生き生きされている。

 初めて会った時は2人とも80代だったが、寅夫さんのまきを割る姿はカッコよかった。と同時に、当然ながら老いのきざしも見え、フサコさんも物忘れが多くなったりした。随分前から長女の西川博江さんら3人の姉妹が「山を下りて一緒に生活を」と話をしていたが、寅夫さんたちは「まだ山で生きたい」と譲らなかった。そこで三女の矢田恵子さんが山の麓の家に引っ越す。

 −娘さんがそれぞれの家族を持ちながら両親をハラハラしながら見守っている。

 映画は夫婦の生活と3人の娘さんのそれぞれの思いが交錯して展開するが、その間に入って、僕もまた寅夫さんたちが亡くなった祖父母に重なってきて、自分がその時充分に会うことや、世話することができなかったという後悔もあって、その罪滅ぼしのような気持ちもあった。テレビ放映がされた約10年、視聴者の声もそれに重なっていた。

 −最後まで山で生活し、山に生き、山で亡くなった。

 僕はずーと10年間、追い続けながら、なぜ2人は山にこだわるのだろうと思ったし、次女の太田悦子さんら娘さん3人もそうだったに違いない。寅夫さんがいつも言っていたのは「人間は自分で食べるものくらい、自分で作らんと」「土があれば何でもできる」。僕は寅夫さんが亡くなってからようやく分かった。寅夫さん夫婦は「農作業」が「生きること」で「人生」だった−そう言いたかったのだと思う。

 −映画は地元と東京で公開され大阪へ。

 映画を作ったのは初めてだが、テレビとは大分違う。映画館に行って、見た人の話を聞いたり、自分でも話したりして、涙が出てくることも多かった。映画の目的は「伝えること」だと分かった。テレビの仕事を長くやっていてそれが少し後ろめたくなるような気がした。

■吉岡秀隆の視線

 −ナレーターの吉岡秀隆さんの起用は。

 僕が見た視座ということで、僕と同じ年齢の人を考えながら、好きだった「北の国から」の吉岡さんにお願いした。真面目で一生懸命で、彼の人間味が出てくるような感じ。特にお年寄り2人に向ける視線が優しかった。特に2人がキラッとする瞬間みたいなものを見逃さない感性の持ち主でぴったりだったと思う。

 ささき・あきら 1970年生まれ。山口県出身。95年に山口放送に入社。報道部記者を経てテレビ制作部配属になりドキュメンタリー制作へ。「奥底の悲しみ」「笑って泣いて寄り添って」シリーズなどで文化庁芸術祭優秀賞など受賞多数。今作は山口放送開局60周年記念映画にあたる。