秀吉「渇え殺し」鳥取城落城後の城兵急死 リフィーディング症候群 日本最古事例か

 「渇(かつ)え殺し」と呼ばれ、日本史上最も過酷な兵糧攻めの一つとされる羽柴秀吉の鳥取城攻め。落城後、久しぶりに食事した城兵らの多くが命を落としたという惨事が日本最古の「リフィーディング症候群」の事例とする論文が、国際医学雑誌に掲載された。郷土史や医学界がこれまで逸話として扱ってきた惨事の原因が改めて検証された。

あくまで逸話

 鳥取城攻めがあったのは天正9年(1581年)。織田信長の家臣、太田牛一が記した「信長公記(しんちょうこうき)」によると籠城戦は3カ月以上にわたり、食料が尽き果てた後、同年10月25日に落城した。城兵らを哀れに思った秀吉が食事を与えると「食べた人は食に“酔って”しまい、過半数がすぐに死んでしまった」とある。

 この惨事は、低栄養状態の患者に急激な栄養投与を行うと、低血糖や電解質異常を起こし、死亡を含めた重篤な合併症を引き起こす同症候群の疑い事例として有名で、研修医が勉強に使う医学雑誌にも取り上げられてきた。ただ関連する医学論文は発表されておらず、医学界では、あくまで逸話として語られていた。

 そこで鹿野泰寛医師(東京都立多摩総合医療センター)が史料を求め“現場”にある鳥取県立博物館の山本隆一朗学芸員(中世担当)に相談。青山彩香医師(JA茨城厚生連総合病院水戸協同病院)を加えた3氏で論文を共著することになった。

歴史的記録

 着目したのは、秀吉の家臣の竹中重門が残した秀吉の一代記「豊鑑(とよかがみ)」だ。「渇え殺し」に関する記述には「粥(かゆ)をたくさん食べたものはすぐに死んでしまったが、少し食べたものは問題なかった」とある。

 信長公記と豊鑑の記述から、食事自体に問題はなかったことが裏付けられ、意図せずして行われた食事量の「比較実験」が生死を左右したと分析。食後の死は同症候群の疑いが強く、事実であれば日本史上最初の同症候群の事例で、危険性と重要性を伝える重要な歴史的記録と指摘した。

 論文は、重要な歴史的医学記録として査読付きで9月に正式採用され、医学雑誌「アメリカン・ジャーナル・メディカル・サイエンス」に掲載。秀吉の肖像画が表紙を飾った。

試行錯誤

 「あくまでも状況証拠的に、原因が同症候群だったと推察するのは妥当、とするのが論文の趣旨」と鹿野医師。現代社会でも拒食症やアルコール依存症の治療などで、厳格なカロリー制限を伴う場合があり「海外でも患者への説明の事例として使ってもらえるかも知れない」と話す。

 初めての国際論文に臨んだ山本さんは、他の記録に残る不作の状況など「どこまで背景を盛り込むべきか試行錯誤だった」と明かし「渇え殺しを知っている人は多く、同症候群を原因とする声も多かったが、きちんと論文として提示された意義は大きい」と話した。

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